この前の奴隷のコスパの話にちょっとつながるけど……。
『古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々』という本を読んだけど、これがめっちゃおもろい。タイトルからわかるように、古代日本の専制君主国家の官僚(官人)の実態がいかにアレなものかがよくわかる。
まず、天皇臨席の御前儀式(もちろん参加強制)に出てこない。余裕でサボる。
その他の役所の儀式(参加強制)ももちろんサボる。
毎日の仕事も仮病使って普通にサボる。
法律(律令)も儀式の作法も全然勉強してこない。
そのかわり官僚特権(免税特権、減刑特権ほか)ゲットのためにとりあえず官職にはつく。
でも特権を無事ゲットできたら速攻で退職して仕事をすることなく特権だけ持ち続ける。
はっきりいって、自分の役得にしか興味がなくてちょっとでも嫌な思いをしたら速攻で逃げる人材やろこんなん!
でもこれが素の人間。労働美徳を徹底的に教育されてない人間はこういう人材にしかならないんだろう。
労働美徳というのは、この当時でいえば儒教道徳。
西洋で言えばキリスト教道徳。
近世・近代では滅私奉公、現代でも「働かざるもの食うべからず」というムードがある。
その労働美徳を庶民全体にまで教育する者とは何か。
ずばり宗教と国家。
基本この二つしかない。
もちろん、商人が金持ちになるため一生懸命働くということはあるだろう。
武士や騎士も自分の土地を守るために必死になって戦うこともする。
でも、それは主人(オーナー経営者)の本人中心半径3メートルぐらいの範囲でしかない。
主人への忠義のために全身全霊を賭して一生懸命働く従僕・郎党はもちろんいるだろう。
それでも、あくまで主人と直接つながりのある個人の範囲でしかない。
その忠節は主人の家族や親戚にすらちゃんと行き届くかどうかすら怪しい。
一般の庶民全体にいたってはなおさらだ。
広げるためには宗教か国家がやるしかない。
はっきり言ってしまえば、宗教・国家が人間一般を労働者として使役するようにするためメンタルレベルから徹底的にシバキ倒してしまうのだ。
「労働しないと生きている価値がない!」と心の奥底にまで徹底してすりこんでしまう。
そうすると、人間の生産性が上がる。
役人も、商人も、農民も、その生産性の平均が向上する。
現代でいえば、労働市場にいる人材の質がおおよそ高くなっていくのだ。
宗教は文化、国家は政治。上部構造だ。
それが生産性を左右するとなれば、結局これらが土台と言われる生産そのものをも規定してしまうのではないか。
素の人間は、自分の役得にしか興味がなくてちょっとでも嫌な思いをしたら速攻で逃げる人材なんだから、生産が、労働美徳を民衆の心身に叩き込む文化や政治よりも先にあるとはとても思えない。
最初に「みんなで協力してがんばって生産をしよう!」という共通の認識(規範)があって、そこから始めて生産という行為が始まるのではないか。
その共通の認識は、最初は生物的な機能によるものだろうし、そこから社会的、言語的(文化的)に、どんどん共通の認識が作られていくのだろう。その共通の認識を極限にまで拡張したのが宗教・国家なんだろう。
などと、とめどもなく空想を広げてしまった。