タイトルは誤字ではない。
その心は「『中動態の世界』という本が、読者である私とともに、その本の内容なる文意をあらわす」といったところか。
読むらる、というのは中動態の表現だ。
文法書にはない。いま私が勝手に作ったからだ。
終止形(と学校では教わる動詞の形)に「らる」をつけるだけだ。
読むらる。書くらる。見るらる。聞こえるらる。来るらる。
あくまで急造だから、形が不恰好なのは許してほしい。
しかし意味は不恰好ではないと思っている。
一見不恰好でも、これがこの現実をありのままの姿としてもっともよく表現している、つまり真実の意味にもっとも近いのだと私は確信している。

さて、『中動態の世界』という本。 中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) www.amazon.co.jp 2,200円 (2020年11月11日 18:05時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する

文法書では、中動態は能動態、受動態と並べて置かれる。
「(私は)『中動態の世界』を読む」は能動態。
「『中動態の世界』が(私に)読まれる」は受動態。
では中動態はどう表現したらいいのか?
文法書の中でもっとも近い表現は、「る、らる」という助動詞によるものである。
つまり、受動態と見分けがつかない。
いや、本書の示すところでは、受動態こそ中動態から生まれたものなのである。

いやちょっと、まず待ってほしい、といいかげん声をかけたくなるだろう。

中動態なんて、聞いたことないぞ。

国語でも、英語でも、文法の授業で(あるいは文法書で)中動態なんて聞いたこともないぞ。

それが普通である。
そう、普通になってしまったのだ。

中動態という名前は忘れさられてしまっている、と断言していいだろう。
普通の人ならまず手にとることのない文法書に、その名前がひっそりとあらわれるだけだからだ。

古典ギリシア語。
中動態があるのはこの言語だけではないが、もっとも身近な言語でその名前が聞かれるのは何か、となったら、私はこれを挙げる。
たとえば、この教科書にもちゃんと出てくる。 新ギリシャ語入門 www.amazon.co.jp 3,740円 (2021年03月27日 03:38時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する

これによると、中動態の意味は以下の通りだという。(引用中の中動相=中動態)

§229. 中動相の意味は次のようである.
(イ)自分自身を~~する[直接再帰]
παιδευόμεθα. 我々は我々自身を教育している.
(ロ)自分自身のために、自分自身との関連で、自分自身(のもの)を~~する[間接再帰]
παιδευόμεθα τοὺς νεᾶνιᾱς. 我々は我々自身のために(我々自身の)若者を教育している.
(ハ)相互に~~する[相互中動](意味上、単数形にはこの用法はない)
παιδευόμεθα. 我々はお互いに教え合っている.
(イ)(ロ)(ハ)は文脈によって区別することになる.
(pp.64 – 65)

いっぽう、『中動態の世界』では、言語学者ラトガー・アランの論文中で提示された中動態の定義を五つ列挙しているが、特に本書が強調してとりあげているのが言語学者エミール・バンヴェニストの定義である。

「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表わしている。つまり、主語は過程の内部にある」(pp.81)

そう、中動態の本質は「主語は過程の内部にある」ということである。
さらには、この中動態と対向する形で能動態が定義されるということでもあり、それはつまり、これまでごく自然の分類と考えられてきた「能動態←→受動態」の対立する二態(ボイス)を基本とする文法の構造を、その能動態・受動態の意味するところまで含めて、根本から覆すということである。

では、その『能動態←→受動態』の対立構造を前提にすると、いったい何が必要となるか。

それは、意志の概念である。

哲学のなかに「行為論」という分野があるが、その出発点にあるのは、ウィーンに生まれ、イギリスで活躍した哲学者、ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの書き記した次の一節だと言われている。

「私が自分の手をあげる」とき、私の手があがる。ここに一つの問題が現れる。私が自分の手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、そこに残るのはいったい何か?

おそらく多くの人はこれに「意志」や「意図」と答えるであろう。
(pp.35-36)

ここで本書は、このウィトゲンシュタインの引き算式について、回答の「意志」や「意図」が導き出されるのが、その構文の差によるものだという視点を提示したものだと言う。

つまり、能動態とは「意志ある主体(主語)が行為する」ことを表現するためのものであり、それに対して受動態は「主語の外部にある意志ある主体によって主語が行為される」と区別されることとなる。
ここで、能動態の主語は「行為者」であり、受動態の主語(あるいは能動態の目的語)は「被行為者」となる。

この「能動態←→受動態」の対立構造では、常に主語の行為に対して意志があるのかないのかが厳しく問われる。
それを本書では傍点付きで「尋問する言語(pp.215)」と表現している。
そして、この意志の概念こそは、社会においてある行為(特に犯罪行為)について誰なら責任を負わせてもよいかという要請から生まれたものであるとも言う(pp.26-29)。

つまり、「能動態←→受動態」の対立構造では、主語に意志があるか否かをさいさいチェックするのである。
そのさいには、その主語に行為の責任を負わせるべきかの確認もつねにともなう。

まさに、「尋問する言語」だ。

逆にいえば、この「尋問」を文法的に可能にしたのが、「中動態の世界」から「能動態←→受動態」の対立構造への移行であった。
中動態から生じた受動態は、親元の中動態を排撃して、もともとそれと対向するペアであった能動態の意味を変質させてしまって、新たに「能動態←→受動態」の対立構造を構成した。
本来誰にも帰属できない非人称の出来事は──たとえば「雨が降る(It rains)」といった文までも、人称化され、さらにこの対立構造に放りこまれることで、「その出来事は誰に帰属する行為であるか?」という形式で表現されてしまうこととなった。
これは本書では、傍点付きで「出来事を私有化する」(pp.176)と表わされている。
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語」(傍点付き、pp.176)への変化である。

だが、意志も責任も、人間が社会を構成する上で発明した概念だ。
「出来事の私有化」もそれに応じて人間がなした、ためにする行為にすぎない。

この現実をありのままの姿としてあらわすために行なったことではない。

もはや、真実を表現しうる言語は、ない、のだろうか。

中動態の探求がその憂鬱を晴らす、一つの光となる。

ここからは、私が『中動態の世界』と読むらる。

文章が読まれる」という文を考えよう。
これは普通の受動態、それも「能動態←→受動態」の対立構造におけるものと言える。
そうすると、その意味するところは、
主語である<文章>が行為『読む』の対象(被行為者)となって、その行為について意志をもち責任を問われる主体によってなされる
ということになる。

この文を読んだ瞬間、突然何のまえぶれもなく、<文章>以外のえたいの知れない何らかの主体が出現して、この文章に行為「読む」を仕掛けてくる
しかも、その主体は、何らかの意志を持つのだと言う。
さらにその意志を持つ主体は、おそらく何らかの社会に所属しており、その社会からこれからの行為「読む」について責任をとるよう強圧されている。
逆に主語となっている<文章>そのものには、意志はない。
意志がないということは責任もないということだ。
それはつまり、<文章>が何らかの主体によって読まれるのは、どうしようもなかった、仕方のなかったことですよ、たとえこの<文章>が原因で不祥事が起きても、この<文章>のせいではありませんよ、そんな責任逃れの意味すら感じられてしまう。
逆にいえば、責任を逃れられるというのは、この<文章>それ自体には、他のものごとにいいか悪いか問わず何らかの強い影響を与えたり、他の何らかの主体の行為をなさしめたりする意志が欠けているからだよと、つまり<文章自身は何ごともなしえない無能力で無価値なんだから見逃してくださいよ、という卑屈な嘆願までも聞こえてしまう。

たった<文章>が「読まれる」という出来事を表現するだけで、なぜここまで悲観し、あきらめなければならないのか。
なぜ<文章>も、<文章>を「読む」主体も、ここまで抑圧され、絶望しなければならないのか。
まさに、「尋問する言語」「行為を行為者へと帰属させる言語」の面目躍如である。

こうして権力はひそかに可能となるのだ。

では、私がきゅうきょ創作した「文章が読むらる」という文はどうか。
これは一般的な受動態の表現ではない。
というよりも、日本語として間違っているとまで言われるだろう。
それはその通りである。
中動態というものを認めない限りにおいては。

中動態とは「主語は過程の内部にある」と定義されていた。
そして、意志の概念というものが不要であった。
責任の強圧もまた不要である。
さらには、ある出来事をある主体の行為にむりやり還元させられることもない。
すると、この文法の構造ではどういう意味になるだろうか。

上の中動態の定義をそのまま持ってくれば、「主語<文章>は過程『読む』の内部にある」と言える。
それはつまり、<文章>という主語は、それ自体が内部となる時空間を生成するということである。
その内部時空間というのは、意志の概念も責任の強圧も必要としない自由な時空間である。

ちょっとここで、上に文に<>を挿入してみよう。
文章が私と読むらる
すると、<文章>という主語に加えて、<>というものが入ってくる。
>とは何か、どういうものなのか、何をするものなのかはよくわからない。
ただ、<>というものは、「文章が読まれる」みたいに、何も文に書かれてないところから突然ふって湧いてくる主体ではない。
>は、「私と」という語句であらかじめ自分を明示して、その自分が主語の時空間に進入していることを伝えてきてくれている。
いうなれば、きちんとあいさつができるものなのだ。
そして、この<>というものは、主語である<文章>と何らかの関係を持つことになる。
本来なら<文章>という主語の内部時空間でそのまま完結する過程「読む」に、あえて名乗り出て、その内部に参入しているからである。
その自由な時空間で、<文章>は<>といっしょに「読む」のである。
そこには<文章>が<>より常に下(被行為者)だとか、あるいは<>より常に上(行為者)だとか、そういう固定された上下関係(身分関係)もない平等な時空間でもある。──そういえば身分もまた責任と同様、社会の要請であった。
しいていえば、<文章>の方が主役(主語)で、<>は脇役(修飾語)だといったところか。
ただそれでも、<文章>が主役になっているのは言葉のあやにすぎない。
主役と脇役を逆にしてもいいのだ。
私が文章と読むらる
こうすれば、今度は<>が主役で、<文章>が脇役だ。
文章>から<>へ、その内部時空間での過程「読む」にスポットが移動するだけである。

ではまた<>に席を外してもらって、「文章が読むらる」を見よう。
もう意味がすっと頭に入ってくるだろう。
あえて書き下せば……
<文章>という主語が、それ以外の主体、意志、責任に言及する必要のないほど自由で、他の主体との身分関係(行為者-被行為者)を決める必要もないほど平等である、主語自らがつくりだす時空間の内部で、その過程『読む』が進む
それはつまり、
<文章>は、過程『読む』が進む内部時空間をつくりだせる能力があり、なおかつそれ自体に価値がある

そして、身分関係(行為者-被行為者)がないなら、こうも言えるだろう。
私が読むらる

中動態の世界」は、まさに、現在の「能動態←→受動態」の対立構造によって必然的に生じる悲観、あきらめ、抑圧、そして絶望から文法的に救出し、この世のありのままの姿、そして真実を表現できる力をもつものであると信じるらる