投稿者: augustvaella

2022/0612 Skeb Coin

Skeb Coinに関する補足説明
https://medium.com/skeb-jp/skeb-coin-supplement-d2c24bdd3521

決済手段問題については、とりあえずこれで一つの解決策が出てきたことで喜び。

まあ、Pornhubも仮想通貨でやってるみたいだし、そういう流れになるのは仕方ない。

おそろしいのは、仕手筋がこのコインに入ってきたりして、通貨が不安定になることだけど……。

うーん、そのあたりは本当によくわからない。

とりあえず最初は少額から使っていって、慣れないうちはあんまりデカいポジション持たないようにしとけばええんかな。

2022/0604『ゆりばさみ』、たぶんエタりそう

またかよ!って感じだけど、正直、もうなにもかも疲れまくりんぐで。

しばらく休養が欲しいといったところ。

そんかわりボイスロイド系動画や、オリジナルの『大扶桑史』やっていくから許して……。

『大扶桑史』のゲーム、いろいろ考えたけど、結局ノベルゲームになりそう。

ゲーム性入れるためにいろいろ工夫したいんだけど……できるかなぁ。

2022/0517 リリエンタール藤原 by AIのべりすと

今日もあいもかわらずAIのべりすてぃんぐしてるけど、歴史の登場人物系はほんときっついきっつい。とにかく親子兄弟関係がぐっちゃぐっちゃになりやすい!

いちいち修正するのもめんどうなんで、そのままつっぱしっちゃってるけど、後から読んだら意味不明すぎることかぎりなし。

んで、リリエンタール藤原。初期設定は、


脚注:
[出典はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。]

キャラクターブック:
リリエンタール藤原:[平安時代の人。藤原プロイセン家の出身。プロイセン王国の出身。プロイセンから来日。従五位下に叙爵。従三位に昇進して中納言。従二位に昇進して右大臣。娘マリア藤原を入内。正二位に昇進して左大臣。権力闘争に負け引退。通称は鉄血殿。]


最終設定は、


脚注:
出典はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。リリエンタール藤原は太政大臣を辞任。リリエンタール藤原は左大臣。リリエンタール藤原は藤原良房の子を誘拐。藤原伊尹の権力は絶大。藤原良房は失踪。リリエンタール藤原は藤原伊尹との政争に敗北。藤原良房は帝。

キャラクターブック:
リリエンタール藤原:[平安時代の人。藤原プロイセン家の出身。プロイセン王国の出身。プロイセンから来日。リリエンタール藤原:従五位下に叙爵。従三位に昇進して中納言。従二位に昇進して右大臣。娘マリア藤原を入内。リリエンタール藤原:正二位に昇進して左大臣。権力闘争に負け引退。通称は鉄血殿。妻は後の皇后、藤原薬子。リリエンタール藤原:桓武天皇の曾孫。桓武天皇の第四皇子。母は葛原親王の娘。リリエンタール藤原:臣籍降下した。政敵は藤原伊尹の息子の藤原兼家。盟友は藤原良相。関白・藤氏長者・内覧・左近衛大将・右近衛大将・式部卿を兼任する菅原道真から官職を奪う。リリエンタール藤原:従一位、太政大臣就任。関白・内覧就任。藤氏長者になる。リリエンタール藤原:娘の夫は藤原伊尹の長男の藤原良房。息子に暗殺される。]

藤原薬子:[平安時代の人。後の皇后。リリエンタール藤原の妻。]


んで本文。太字は人間が入力したところ。


リリエンタール藤原は、平安時代の公卿。藤原プロイセン家の出身。
プロイセンから来日して従四位下参議・左近衛大将となった。しかし政争に敗れ、左大臣を辞任し隠居した。娘が入内したが、その姫君も夭折している。その後、娘の孫にあたるマリア=マグダレーナと結婚し、孫のリリエンタール藤原忠平が生まれた。

リリエンタール藤原の生い立ち。

彼は平安中期の貴族で、桓武天皇の曾孫である。
桓武天皇には十人の息子と二十人の娘がいた。
そのうちの一人が桓武平氏高望王の長男であり、光仁天皇として即位した。
この天皇の第四皇子であったのがリリエンタール藤原だ。
母は葛原親王の娘。
母方の血筋からすれば、リリエンタール藤原は皇族になる資格があった。
だが、彼の祖父である嵯峨天皇は彼を臣下としたのだ。
これは彼が皇位継承争いに巻き込まれないようにするためだったらしい。
そして彼もまた、皇位継承権を放棄して臣籍降下したのである。
ところが、天慶八年(九四五年)に藤原純友という海賊が現れて、都を襲った。
朝廷はこの事態に対処するため、源頼信や平貞盛といった武士団を動員する。
このときリリエンタール藤原も、源満仲と共に出陣していたのだが……。
リリエンタール藤原は源満仲らと共に賊軍と戦うが、敗走してしまう。
そのときに敵の矢に当たってしまったのだ。
傷を負いながらも命だけは助かったものの、そのままでは死んでしまうだろうということで、近くの寺に運ばれた。
そこで手当を受けた結果、一命を取り留めたのである。
その後、彼は傷の治療のために京を離れた。
その途中で、山道で行き倒れている女性を発見する。
それがのちの皇后となる藤原薬子なのだ。
彼女は高貴な身分の女性だったが、自分の身よりも幼い子供を守ろうとしていた。
そんな彼女を見て、リリエンタール藤原は感銘を受けたのだという。
そして彼女を介抱すると、やがて二人は恋に落ちる。こうしてリリエンタール藤原は、彼女の夫になったのだった。

リリエンタール藤原の宮中での出世。
まずは従五位下参議となり、次いで従五位上に昇進した。さらに正五位下まで昇進したところで、今度は左大臣に任命されたのである。
ちなみに左大臣とは、太政官において筆頭の地位にある大臣のこと。つまり事実上のトップということになる。そのためか、左大臣に就任すると同時に従三位に昇進していた。また同時に中納言にもなっている。
このあとも順調に官位を上げていき、ついに正三位大納言にまでなった。しかしここで政敵による讒言を受けてしまう。その結果、彼は失脚してしまったのだ。
左大臣辞任後、しばらく官職に就くことはなかった。しかし寛弘三年(百六十四年)になって、再び左大臣に就任することになった。ただし以前のように、すぐに辞めるようなことはしなかった。このまま任期を全うしようと決意したようだ。
その後も左大臣の職にあり続けたが、やはり政敵からの妨害工作を受けることになる。それは藤原氏の中でも権勢を誇っていた藤原伊尹の息子・兼家によって引き起こされたものだった。兼家は父の名声を利用して、左大臣の座を奪おうとしたのである。
これに対抗すべく、リリエンタール藤原は右大臣に就任した。これによって権力の座を得たわけだ。しかも彼は兼家に勝つために、積極的に動いた。例えば、藤原良相を味方に引き入れたりしている。
それからしばらくして、彼は正二位右大臣となった。これにより、名実ともに政治の頂点に立ったといえるだろう。ただその後は、あまり目立った活躍はなかったようである。
リリエンタール藤原が太政大臣になるまでの経緯。彼はかつて、ある人物から官職を奪っている。それが原因で左遷されてしまったからだ。その人物は後に、関白・藤氏長者・内覧・左近衛大将・右近衛大将・式部卿などを兼任することになる人物である。
その人物が誰なのかと言えば……なんと菅原道真公であった。なぜ彼が菅原姓を名乗っていたのかといえば、もともとは菅原氏の出身だからである。彼は宇多天皇の皇子で醍醐天皇として即位したが、即位からわずか半年で亡くなってしまう。このため、彼は延喜元年(九〇一年)に菅根として臣籍降下させられた。
しかし、彼の才能を高く買っていた藤原時平が彼を呼び寄せて、臣下の礼を取らせた。その後、彼は右大臣に就任し、左大臣の藤原忠平と競い合うようになる。
だが、その競争に敗れた忠平が失脚してしまう。代わりに忠平の娘婿である藤原基経が、藤原時平と共に政権を担うようになった。そして忠平は大宰府へ流されてしまう。これがいわゆる承平天慶の乱と呼ばれる政変だ。
その後、忠平は復権して左大臣に復帰したものの、天慶七年に病没してしまう。そして天慶八年には藤原道真も、藤原時平と共に失脚する。だが、藤原時平は天慶十年にも病死してしまい、彼の息子である藤原義懐が摂政を務めることになった。
だが、天慶十一年の内裏焼失事件をきっかけに、藤原義懐は失脚する。代わって藤原実頼が摂政となったが、彼もまた藤原忠平のように政争に敗れて、太宰府へと配流されることになった。
こうして藤原摂関家は、藤原純友や平将門といった賊軍によって滅ぼされてしまったのだった。
リリエンタール藤原は、藤原純友の反乱を鎮圧するために、兵を率いて出陣した。そして戦いに勝って、純友を討ち取ることに成功する。
ところが、この戦いでリリエンタール藤原は深手を負ってしまった。そのため、近くの寺に運ばれることになった。そこで手当を受けた結果、命は助かったものの、傷口が化膿して寝込んでしまったのだ。
傷が治るまでは、なかなか動けそうになかった。そこでリリエンタール藤原は、娘のマリアとともに都を離れて療養することにしたのである。
その後、リリエンタール藤原は傷の治療のために京を離れた。その途中で山道で行き倒れになっている女性を発見する。それがのちの皇后となる藤原薬子なのだ。彼女は高貴な身分の女性だったが、自分の身よりも幼い子供を守ろうとしていた。そんな彼女を見て、リリエンタール藤原は感銘を受けたのだという。
そして彼女を介抱すると、やがて二人は恋に落ちた。こうしてリリエンタール藤原は、彼女の夫になったのだった。

リリエンタール藤原の最盛期。
それはおそらく、平安時代を通じて最も華やかな時代でもあっただろう。左大臣であり、太政大臣でもあるという地位にあったからだ。
しかし、そんな彼にも陰りが見え始めることになる。なぜならば、ライバルである左大臣の藤原伊尹の息子・兼家が台頭を始めたからだ。彼は父譲りの弁舌の才能を活かして、左大臣の地位を手に入れていた。
そのことに対して、リリエンタール藤原は危機感を覚え始めていた。このままでは、自分が失脚させられてしまうかもしれないと思ったのだ。
そこで彼は、政敵である藤原伊尹とその息子に対抗するべく、ある作戦を実行することにした。すなわち、娘を入内させて藤原伊尹の長男・藤原良房と結婚させることである。
この結婚により、藤原氏の勢力図が大きく変わった。というのも、良房の父・良輔と、伊尹の妻である高階成章の娘・明子は仲が悪かったためだ。良房の母が藤原定方の娘で、明子の姉だったため、伊尹にとっては義理の息子になるわけである。
つまり、良房は伊尹にとって義弟にあたる人物だ。しかも良房は、父の権力を笠に着てやりたい放題の振る舞いをしていた。
そこでリリエンタール藤原は、良房と敵対する勢力と組んで、良房を排除する計画を立てたのである。その相手となったのは、右大臣の藤原伊尹とその息子の藤原良房であった。

太政大臣リリエンタール藤原と右大臣藤原伊尹・息子の藤原良房との政争の結果。
リリエンタール藤原は、娘を入内させることに成功した。その娘とは、後の后・藤原薬子のことだ。
リリエンタール藤原は、娘の藤原薬子を良房の正室として送り込んだ。そして良房と伊尹の対立を煽って、良房を追い落とすことにしたのである。良房は伊尹に対抗すべく、藤原伊尹の息子・藤原良相の娘を妻に迎えることにする。これによって伊尹の政敵・藤原良相とも縁戚関係を結ぶことになった。
また、藤原良房は藤原伊尹の娘を正妻としていたので、伊尹の息子・藤原良房は、彼の娘婿ということになる。これは藤原良房にとっても、大きなメリットがあった。何しろ、良房には後ろ盾がなかったからである。
だが、そんな状況でも、藤原良房は藤原伊尹に勝つことはできなかった。それどころか、逆に追い詰められる始末だった。そこで良房は、藤原伊尹の娘である中宮・彰子が妊娠していることを知る。
そこで良房は、伊尹に内緒で、中宮・彰子に求婚した。ところが伊尹は、それを許さなかった。そして、良房は右大臣から左大臣へと昇進した。しかし、それもつかの間のことだった。今度は、伊尹が失脚してしまったのだ。
その原因が何かと言えば……なんと、左大臣が娘婿である藤原良房の専横を許すような態度を取ったためだという。
実は、リリエンタール藤原が左大臣になったとき、藤原伊尹が左大臣になっていたのだが、そのときにも同じようなことがあったらしい。リリエンタール藤原は政敵である伊尹を陥れるために、政敵の娘と結婚した。そして、政敵の息子を婿にすることで、政敵の権勢を削ごうとしたのだった。
ところが、伊尹はその策略を見抜いていた。そこで彼は、そのリリエンタール藤原の陰謀を利用して、政敵であるリリエンタール藤原を倒すべく画策したのだ。
その陰謀が成功した結果、リリエンタール藤原は失脚し、伊尹が政権を握ることとなった。しかし、リリエンタール藤原は、左大臣のままでいられたのである。

リリエンタール藤原の晩年。
それは彼が太政大臣を辞任して、左大臣に復帰した時期のことである。
リリエンタール藤原は左大臣に復帰できたものの、伊尹の権力が強大になりすぎていて、もはや彼に太刀打ちできる状態ではなかった。そのため、再び政敵の藤原氏と手を組んで、伊尹の排除を画策したのだという。
リリエンタール藤原は、まず、伊尹の息子である藤原良房を亡き者にしようとした。そのために、藤原良房の子供を誘拐したのである。
その後、藤原良房は行方不明になった。そこで、伊尹は良房の捜索を命じた。
良房の失踪事件に関しては、様々な噂が流れた。例えば、良房の愛人が良房の行方を知っているとか、良房は病気になって死んだという噂などである。
そんな中、リリエンタール藤原は、ある計画を思いついた。すなわち、良房の子供を自分の娘と結婚させて、その子供に伊尹の位を継がせようという計画だ。
そこで彼は、娘を入内させた。娘の名前はマリアという。そして彼女は、良房の子供の嫁となった。こうして、マリア藤原と良房の子供の結婚によって、良房が帝位に就くことになる。
この結婚により、藤原氏の勢力図が大きく変わった。というのも、良房の父・良輔と、伊尹の妻である高階成章の娘・明子は仲が悪かったためだ。良輔の娘が高階成章の娘と結婚するということは、高階成章の娘も高階一族になるということである。つまり、高階成章の娘は高階一族のトップに立つことにもなるわけだ。その結果、藤原良房は、父・良輔よりも、母方の血筋が勝ったことになったのである。
ちなみに、リリエンタール藤原は、娘を良房の正妻として送り込んだ。そして、良房は正妻を娶ったことで、他の女を側妾として迎え入れることが可能になった。その筆頭格は、皇后の藤原薬子だった。また、正妻を娶ることで、正妻以外の女性を側室として迎えることも可能になった。その筆頭は、皇后の藤原薬子だった。
また、正妻の他にも、愛人たちを持つことができるようになった。その筆頭は、皇后の藤原薬子と、皇太后の藤原彰子の二人である。
このように、良房は正妻と正妻以外との間に生まれた子供たちの間で、熾烈な後継者争いを繰り広げることとなる。
ところで、藤原良房の子供が天皇になったのは、彼が即位してから一年後のことだった。
一方、リリエンタール藤原は、息子に帝位を譲ることなく、左大臣のまま死去した。
リリエンタール藤原は、藤原良房を憎んでいた。
なぜならば、リリエンタール藤原は、かつて伊尹から権力を奪ったことがあるからだ。
だが、そのリリエンタール藤原は、伊尹に権力を奪われた。
そして、リリエンタール藤原は失脚した。
ところが、そのリリエンタール藤原の息子は、伊尹に権力を奪われなかったばかりか、逆に、伊尹を追い落とすことに成功したのだ! それどころか、その息子がついに天下を取ったのだ!!……これはもう、許せないよね? だから、リリエンタール藤原の息子は、リリエンタール藤原を殺したのだ。
リリエンタール藤原が殺された後、リリエンタール藤原の娘婿である藤原良相が、左大臣に就任した。
リリエンタール藤原の息子は、藤原良相を暗殺しようとしたが、失敗した。
リリエンタール藤原の息子は、藤原良相に捕らえられて、処刑された。

リリエンタール藤原の後世の評価。
リリエンタール藤原は、政敵の伊尹を失脚させるべく暗躍したが、結局、伊尹の権力は強大すぎて、彼に太刀打ちできなかった。
そして、リリエンタール藤原は失脚し、伊尹の政敵の藤原氏と手を組んで、伊尹の権力を削ごうとした。しかし、それは失敗に終わった。

藤原忠平は日記『貞信公記』にこう記している。
藤原良房の子を誘拐したのは、リリエンタール藤原ではなく、彼の息子の藤原兼家だというのが定説になっている。兼家は、伊尹に敵対している人物なのだ。
兼家がなぜそんなことをしたのかといえば、伊尹が邪魔だったということだろう。
兼家の政敵である伊尹は、兼家の政敵でもある。そのため、伊尹が権勢を振るうのを快く思っていなかったはずだ。
兼家にとって、リリエンタール藤原は、伊尹の対抗馬になりうる存在だった。
リリエンタール藤原の娘は、良房の正妻になった。良房と娘は結婚した。つまり、リリエンタール藤原の息子は、父・リリエンタール藤原の遺志を継ぐ形で、伊尹の政権を脅かしたことになる。
リリエンタール藤原は、息子に帝位を継がせることができなかった。その恨みもあったかもしれない。
藤原兼家の日記にはこんな記述がある。藤原良房が行方不明になった時、藤原良房の子が、藤原良房の正妻の子であるという証拠はない。

『大鏡』にはこう書かれている。

良房の母は伊邪那美であり、伊卑奈久姫を産んだのは黄泉の国なので穢れており子供は生むことができない。
この辺りはどうも疑わしいのだが、この記述は無視できないほど影響力があるらしい。なぜならば、当時の人たちは皆、こういう考え方をする人

ばかりだったようだからだ。そういう人達が信じてしまったのなら、真実として記録されてしまったのだろう。

リリエンタール藤原の逸話として、次のようなものがある。
リリエンタール藤原の娘の夫は藤原良相だった。その夫の良相を、ある女性が口説き落とした。その女性こそが薬子である。薬子は後に、藤原伊尹の側室になるのだけれど、藤原良相の妻を横取りしてしまうことになったわけだね。で、藤原良相とその妻の仲が冷めてきた時に、リリエンタール藤原はその女性と結婚することにしたのだという。それで二人は再婚することになったんだってさ。でもさあ……これって浮気だよね。薬子の方が正妻なんだもん。不倫じゃん! 正妻をないがしろにする男っているけどさあ、そういう男はダメだと思うよ。

リリエンタール藤原は、娘のために良房の子供を誘拐しようとした。しかし、失敗して殺された。リリエンタール藤原の息子は、伊尹に敵対していた。だから伊尹は彼を捕らえて処刑した。

リリエンタール藤原は本当にプロイセン出身なのか?という議論については、こうである。

リリエンタール藤原は、平安初期の貴族・藤原鎌足の第二子とされている。彼は藤原氏の出自だが、鎌足の曾孫ではない。鎌足の曾孫は、宇多天皇や醍醐天皇の時代に活躍した菅原道真なのだ。
だから、リリエンタール藤原は、実は鎌足の孫ではなく曾孫だったのではないか?という説が有力視されているのだそうだ。リリエンタール藤原が日本に来たのは、彼が死ぬ一年ぐらい前のことだったらしい。ということは、リリエンタール藤原は日本に来てから、鎌足を曾祖父とは認識していなかった可能性がある。
鎌足は平安時代の貴族なので、リリエンタール藤原よりはだいぶ上だ。それに、藤原一族は、鎌足以前にもたくさんいた。だから、リリエンタール藤原は、鎌足のことを曾祖父だとは思っていなくても不思議はない。

2022/0516 源ジャクソン by AIのべりすと

AIのべりすとさんに源ジャクソンについて聞いてみた。

まず、メモリに次のように打ちこんで、

源ジャクソンは、鎌倉幕府征夷大将軍。イングランド王国出身で、源実朝の養子。

脚注には

[出典はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。]

としたが、いまいちうまくいかない。

そこで、メモリではなくキャラクターブックに

源ジャクソン

源ジャクソン:[鎌倉幕府征夷大将軍。イングランド王国出身。源実朝の養子。]

と書いておいた。このキャラクターブックは適時更新して、最終的には

源ジャクソン

源ジャクソン:[鎌倉幕府征夷大将軍。イングランド王国出身。源実朝の養子。源ジャクソン:平清盛の息子説。藤原道長の娘と結婚説。平安時代の中頃来日。源ジャクソン:来日後、鎌倉住み後京都住み。京都で有名。源ジャクソン:軍事面、行政面で活躍。京在住時から伊賀忍者軍団こと黒党忍者の頭領。]

までなった。書き終わったいまなら、もっと増補できるだろう。

というわけで本文。太字は自分でつけたした部分。AIの出力は適時消去したところがあるが、書き換えてはいない。


源ジャクソンは、鎌倉幕府征夷大将軍。イングランド王国出身で、源実朝の養子。 概略。

11世紀中ごろに来日して京都に住み着いたらしいが、詳しいことはわからない。
当時の武士の身分で言えば、御家人にあたるようだ。
その後鎌倉へ来て北条氏に仕える。
12世紀の前半には、京から関東に移ってきた源義経と仲良くなり、義経を頼朝より厚遇したそうだ。
そして、12世紀後半ごろになると、藤原摂関家や平氏などの武家に雇われて、戦に参加したりもしている。
しかし、平家滅亡とともに、源氏方として戦ったものの、その後の消息は不明だ。
つまり、歴史からは消えているわけだが……。

源ジャクソンの出生。

出自については諸説あってはっきりしない。
一説には、平清盛の息子とも言われているが定かではない。
しかし、その説が正しいとすると、平清盛の孫ということになってしまう。
まあ、それはないだろうなぁ……と思うのだが。
また、藤原氏とも親交があったようで、藤原道長の娘と結婚していたという説もある。
ちなみに、この娘さんの名前は、藤壺というらしい。
そういえば、源氏物語にも出てくる名前だったような気がするけど、どうだろう?
そして、源ジャクソンの没年は不詳なのだが、13世紀には亡くなっていると思われる。
なお、彼の墓とされるものは、現在も残っているそうなのだけれど、それがどこにあるのかまではわかっていない。
ただ、墓があるということは、少なくとも鎌倉時代末まで生きていたということになるのだけれどもね。
さて、そんな源ジャクソンであるが、彼は日本に来て以来ずっと忍者をやっていたわけではないようである。
彼が日本にやって来た時期は、はっきりしていないのだが、大体平安時代の中頃と言われている。

源ジャクソンの来日後。

鎌倉にしばらく住んでいたようではあるが、その後は、京都に住んでいたのではないかといわれている。
ただし、これはあくまで推測であり、本当のところは不明である。
また、京都のどこに居たのかもよくわかってはいない。
源ジャクソンは、京都では結構有名であったらしく、当時の様子を描いた絵が残っているそうなんだが、残念ながら見たことはないんだよねぇ……。
ちなみに、京都に住んでいる間は、公家の屋敷で働いていたのではないかと想像されている。
あと、彼は、後に足利将軍家に仕えており、足利義満の時代に活躍した武将として知られている。
なので、もし、源ジャクソンが本当に平将門の子孫だとすると、平将門の直系子孫である可能性が高いといえるかもしれない。
もっとも、あくまでも可能性の話であって確証はないんだけどね。
源義朝の庶子にして、源頼朝の弟。
頼朝の死後、頼朝の妻北条政子の庇護を受けて伊豆国で挙兵するが失敗。
その後諸国を流浪して、最後は奥州藤原家を頼って落ち延びる。

源ジャクソンが鎌倉幕府征夷大将軍になるまで。

頼朝の死により、一時は政治権力を失った頼朝だったが、実は彼にはまだ子供がいなかったため、弟の義経を後継者にするつもりだったらしい。
ところが、頼朝が死んだ後の遺言で、頼朝の長男義詮が後継に指名されたことから、義経の立場は非常に微妙になってしまった。
そこで、頼朝の三男坊頼朝の甥である源三位頼政と共に、反平氏勢力として蜂起したのだという。
しかし、結局平氏討伐には失敗し、敗走中に九州に落ち延びることになったらしい。
その後、平家打倒を目指して九州でも戦い続けたらしいのだが、ついに最後まで勝ち残ることはできなかったようだ。
そして、壇ノ浦の戦いで敗れたのちは、安宅船に乗って四国に渡り、土佐国の浦戸湾に上陸するも、ここで力尽きて死亡したとされている。
しかし、死亡したのはもっと前ではないかとも言われていて、正確な時期については分かっていない。
ただ、死後も怨霊となって暴れまわったという伝説もあり、そのせいか今でも高知県高岡郡佐川町や愛媛県今治市などには、彼の墓があるそうだ。
また、神奈川県小田原市にもあるそうである。
ただ、これに関しては信憑性に欠ける話だと思っている人も多いみたいだけどね。

源ジャクソンが鎌倉幕府を開いて征夷大将軍に就任したとき。

鎌倉幕府の将軍職は、北条氏一門からしか選ばれない決まりになっていた。
そのため、源氏の血を引いているとはいえ、頼朝の庶出の子である源ジャクソンが幕府のトップになるというのは、なかなか難しいことだったろうと思う。
実際、鎌倉武士たちは反発していたようだ。
ただ、それでも源ジャクソンは幕府を開くことに成功しているわけだから、やはり彼の実力はかなりのものだったということが言えるだろう。
また、彼が征夷大将軍になったことで、それまで関東を支配していた鎌倉公方の地位が不安定になってしまったということもある。
鎌倉幕府は、元々は朝廷の出先機関のようなものだったのだけれど、それを事実上支配しているのは関東管領上杉氏だったからである。なので、鎌倉府が征夷大将軍になったからといって、すぐに上杉氏がその地位を追われるということはなかったのだが、代わりに北条氏の一族である扇谷上杉家が実権を握るようになったというわけだ。
そして、この扇谷上杉家が滅ぶまでが、いわゆる室町時代ということになる。

鎌倉幕府征夷大将軍源ジャクソンの全盛期。

13世紀前半。
源ジャクソンは、鎌倉幕府において、軍事面・行政面で大きな活躍をしたらしい。
まず、彼は京にいた頃から、忍び集団を持っていたと言われている。
それが伊賀忍者だったのだ。
そして、源氏の血筋を引き、頼朝の養子となった彼のもとに集まってきた忍者たちをまとめ上げ、自分の手足のように使っていたらしい。
つまり、彼が率いた忍者軍団こそが、後の”黒党忍軍”ということになったのだ。
この黒党の頭領が源ジャクソンだったということだ。
彼は、忍者たちを束ねて、様々な情報収集を行い、鎌倉の政治にも関わっていたようである。
また、鎌倉の治安維持のために警察組織のようなものも作っていたらしく、これは後に室町幕府でも真似されたと言われている。
そして、鎌倉を治めるために、彼は、京都にいる時の人脈を生かして公家たちと仲良くなっていった。
公家たちには、彼らの持っている荘園の管理を任せていたようだ。
また、公家たちが持っていた荘園の代官なども任せていたという。
公家たちからすれば、自分たちが管理を任されている荘園が、勝手に他の人間に使われてしまうのは困るのである。
そこで、源ジャクソンが、その問題を解決するために、彼ら貴族が保有していた荘園の一部を買い取ったり、あるいはその土地を借り上げて、そこに荘園を造ってあげたりしたらしい。
そうすることで、彼らは安心して自分たちの荘園を管理することができたのだという。

ちなみに、源ジャクソンが、鎌倉で権力を握っていく上で邪魔な存在が何人かいたという。
例えば、北条政子。
彼女は、頼朝の死後、頼朝の妻として政治を行っていた。
しかし、彼女の政治は武家社会とは相容れないもので、鎌倉武士たちは不満を募らせていったようだ。
そこで、源ジャクソンは政子の暗殺を計画したのだという。
しかし、それは失敗に終わったらしく、結局政子は出家して尼僧となり、伊豆に隠棲してしまったのだという。
ただ、源ジャクソンは諦めなかったようで、その後も何度か政子を襲おうとしていたらしい。
しかし、政子が強すぎたのか、結局政子に返り討ちに遭ってしまったのだという。
そして、頼朝が死んだあと、頼朝の未亡人であった北条政子と頼朝の庶子で義経の弟の範頼との間で争いが起こったらしい。
しかし、これも最終的には、範頼は討ち死にしてしまい、義経が鎌倉に凱旋することになったようだ。
その後、源頼朝が死んでしまったことで、頼朝の跡を継いだ義詮は、将軍職を継ぐことができなかった。

鎌倉幕府征夷大将軍源ジャクソンの晩年。

源ジャクソンは、幕府内で大きな権力を持つようになっていた。
しかし、そのことに危機感を抱いた有力御家人によって、彼は殺されてしまった。
その事件が元になって、鎌倉幕府の将軍職は北条氏一族からしか選ばれないという決まりができたのだとか。
また、この事件がきっかけで、鎌倉幕府は、朝廷の出先機関から、事実上の支配権を握るようになっていったとも言われている。

源ジャクソンの容姿。

身長は180cmくらいあるだろうか。
髪の色は黒。
顔は、彫りが深く、鼻筋が通っていて、目は切れ長。
眉は太くて、口髭を生やしている。
肌は浅黒く、体格はがっしりとしていて、肩幅が広い。
服装は、狩衣のような服を着ていることが多い。
源ジャクソンの年齢。
彼は、頼朝が亡くなってすぐの頃に、30歳前後で亡くなっているので、享年40代半ばから50代の前半というところだろう。
鎌倉武士たちは、源ジャクソンが征夷大将軍になったことを良く思っていなかったようなので、殺されたという可能性もある。
ただ、彼の死に関しては、様々な説があるのだけどね。
源ジャクソンの死因は毒殺だったという説もあれば、暗殺されたという説もある。
また、彼を殺した犯人は、彼の側近だったともされている。
また、彼は、源氏の血を引いているとはいえ、頼朝の庶出の子だった。
そのため、彼には後ろ盾がなかった。
そのため、彼は、幕府を開くことに成功したものの、次第に幕府の実権を失っていったのかもしれない。
そして、最後は暗殺されてしまったというわけだ。
源ジャクソンは、鎌倉幕府を開いた人物だが、彼の死後、幕府の実権を握ったのは、北条一族の誰かだったと言われている。
そして、源ジャクソンが開いた鎌倉府は、北条一族が代々支配する鎌倉府になったのだ。

鎌倉幕府征夷大将軍源ジャクソンの後世の評価。

彼は、鎌倉府を開いて鎌倉を支配してはいたけれど、彼が鎌倉で大きな力を持っていたかというと、それほどではなかったようである。
彼が、鎌倉で大きな権力を持っていたのは、彼が京都にいた頃からの人脈のおかげなのだそうだ。
また、彼自身は、鎌倉武士たちから嫌われていたらしく、特に征夷大将軍になってからは、征夷大将軍の権威を利用して、好き勝手なことをしていたようだ。
そんな彼を嫌っていた人たちがたくさんいて、彼らが暗殺したのではないかと言われている。
他にも、自分が死んだ後に鎌倉幕府の権力が北条一族に移ってしまうのを嫌った鎌倉武士たちが、源ジャクソンを毒殺したとか、あるいは、鎌倉武士たちに恨みを抱いていた者たちが、彼を暗殺しようとして失敗したという話もある。
鎌倉武士たちは、源ジャクソンのことを嫌い、憎んでいたようだから、その可能性は高いのではないだろうか。
しかし、暗殺説には疑問点も多いようで、暗殺に失敗した結果、逆に源ジャクソンに殺されてしまったのではないかという説もあるようだ。
源ジャクソンの人柄。源ジャクソンは、公家たちと親しくしていた。
公家たちと仲良くすることで、鎌倉武士たちの反感を買うことを恐れたのだろうか? しかし、公家たちと仲良くしておけば、いざ鎌倉武士たちと対立したときに、公家たちを味方につけて、鎌倉武士たちと戦えると考えたのかも。
また、源ジャクソンは、京都で暮らしていた時に、武家社会では得られない情報を手に入れることができた。
そして、京都で知り合った武家社会の有力者たちから、鎌倉の武家社会の情報を得ることができたので、鎌倉でも上手くやっていけると思ったのかもしれない。

源ジャクソンはイングランド王国出身であるかどうかについての後世の議論。

源ジャクソンは、イングランド王国出身であるとする説が唱えられている。
この説は、源ジャクソンが、イングランドの王子であるエドワード・ペンローズを父に持つスコットランド人だとするもので、この人物が、イングランド王ヘンリー八世の庶子であったとされているからだ。
しかし、これは間違いらしい。
なぜなら、源ジャクソンは、イングランド王国ではなく、スコットランドの出身だからだという。
源ジャクソンが、イングランド王国の王族だったのは確からしいが、彼はイングランド王国で生まれたわけではないらしい。
源ジャクソンは、イングランド王国で生まれ育って、イングランド王国の貴族と結婚したのだという。
源ジャクソンは、日本に来てから、鎌倉幕府を開き、鎌倉幕府が滅びるまで、ずっと鎌倉に住んでいた。
そのため、源ジャクソンが、イングランド王国内で育ったのは、せいぜい10歳くらいまでなのではないかという話がある。


Copyright © 2024 アウグストロン

Theme by Anders NorenUp ↑